毎年この時期になると広島や長崎の原爆の日、そして終戦記念日と先の対戦がらみの話が増えます。
そして蒸し暑い気候と相まって70年前もこのように暑かったのかと思いを馳せるのです。

戦後日本は平和を国是として過ごしてきました。
その平和が今曲がり角に来ています。
かつて平和とはアメリカに頼ることでした。冷戦構造の下では核の傘が大きな意味を持ち、そのパワーバランスが平和をもたらしていたのです。そしてその構造の中で日本に出来る事は殆ど無く、経済成長が唯一の西側としての役割でした。
そうした構造が崩れた今、遅まきながら新しい平和の意味が問われています。

今年は集団的自衛権の容認がなされたことで大きな議論になりました。
「日本は戦争が出来る国になった」と言われています。
しかし日本はずっと前から戦争が出来る国です。自衛のための戦争はずっと認められてきました。
ただ、集団的自衛権の容認によってこれまでより少し行動範囲が広がったのは間違いないでしょう。「だからより戦争が出来る国になったのだ」と考えるのは大きな間違いです。

戦争はいつでも出来ます。集団的自衛権が無くても領海侵犯や領空侵犯をする外国の軍隊を挑発してエスカレートさせるのは簡単な事です。
しかし日本はずっとそうしたことは抑制的でした。交戦しても良い場面においても相手の挑発に乗らずに大事にならないよう抑えてきたのです。
それは集団的自衛権が容認された後でも同じことです。行使できるからといって行使したいわけではありません。戦争をしたい国なんて世界に1つも無いのです。

世界中の殆どの国が軍隊をもち、集団的自衛権を持っています。彼らに「何故軍隊や武器を持つのか」と聴けば100%「平和のためだ」と答えるでしょう。戦争ができるというのは平和を守れると殆んど同義なのです。

逆に平和主義が政情を不安定にします。
東アジアで言えばかつて日中国交正常化を優先するあまり台湾と断交し、結果台湾海峡が不安定になりました。そして中国の拡大路線を容認したことでその刃は今日本にも向けられています。
韓国に対してもかつて軍事政権を理由に国交を持たず、北朝鮮に擦り寄ったことで韓国は心置きなく反日国家として成長しました。
つまり、平和主義(に限らずあらゆる主張は)がバランスを崩し政情不安に陥らせるのです。

平和のために軍隊があると書きました。これは道具は使い方次第だということです。
ナイフは武器にもなれば便利な道具にもなります。問題は目的が何なのかということです。
繰り返しになりますが戦争をしたいと思っている国は世界に1つもありません。いかにもやりたそうなあの国やあの国でもです。

今多くの紛争が起きている殆んどが内戦ですが、かつてあらゆる紛争地帯に軍隊を送り込んできたアメリカは近年オバマ政権の方針で介入しなくなり、世界中から批判されています。
結局平和を保てるのは大きな力しか無いのです。
実際核兵器を持つ国は攻撃を受けたり内戦が起こったりしません。絶対にないとは思いませんがそうなりにくいのは間違いないでしょう。

僕は別に軍拡を支持したいわけではありません。軍事力は最低限に抑えるのが経済的にも良いと思っています。
僕がいいたいのは「集団的自衛権を持つと戦争が起きる」と考えている人が平和を維持するのは不可能だということです。


原爆と原発の関係は戦争と平和の関係に似ています。
日本では原発は核の平和利用として推進されてきました。それはそれで国民の理解を得てきましたが、一方では日本は核兵器を作れる国を目標としてきたのも事実です。
「核兵器は持たないが持てる技術は持つ」ことで抑止力としてきたのです。
実際には核兵器を実用化するには実験を繰り返す必要があり現実的ではありません。その意味で日本は抑制的とも言えます。
これは集団的自衛権に当てはめれば「権利は持つが行使はしない」ということになります。
本当に行使をしないか疑問に持つ人もいるでしょうが現実的には無理でしょう。
核兵器と同じで持つことが抑止になるのです。

残念ながら僕達の世界はそういったバランスの上で成り立っています。
人間は抑えるものがないと事故防衛のために攻撃的になる生き物なのです。
ただ、だからこそ平和が崇高な理想だということに異議を唱える人もいないのです。